時代雛特集

山形県には、最上川流通の発達と供にもたらされた京の文化品がたくさん残されており、ここでは山形県内各地の旧家に今も大切に保存されている時代雛にスポットをあてて特集いたします。

数々の貴重なひな人形が残る玉貴享保雛・有職雛(高倉雛)・紙雛(立雛)・次郎左衛門雛など貴重な雛人形の数々
日本三大つるし雛の一つ酒田の傘福と共にお楽しみください。

山形県のひな人形の歴史

山形県には、最上川流通の発達と供にもたらされた京の文化品がたくさん残されており、山形県内各地の旧家に今も大切に保存されている時代雛もそのひとつです。日本の歴史を見つけ、時代と共に歩んできたひな人形達、ひな人形と言えど顔や、姿は年代によってそれぞれ異なり、個性溢れる表情を見せてくれます。現在でも古今雛、享保雛など貴重な人形が数多く残る玉貴では、彼ら大勢の雛たちに囲まれながら、雅な平安の時代を味わうことが出来ます。皆様の和の心をくすぐるひとときの空間に、ぜひ思いをはせてみてはいかがでしょうか。

時代雛

ひな祭りと流し雛の歴史、そのルーツをご紹介。

時代雛特集|玉貴 時代雛特集|玉貴

古代中国から伝わる文化から

起源は古代中国にて起こった「上巳節」まで遡ります(300年頃)。上巳(じょうし)とは3月上旬の巳の日という意味で、季節の変わり目に災いをもたらせる邪気が入りやすいと伝えられており、この頃に水辺で穢れを祓う習慣が行われていたようです。

この上巳節が長い歴史の中から、中国から日本に伝えられた事によって、禊(みそぎ)の神事と結びつきました。はじめの頃は天皇の為にお祓いをしていたそうですが、平安時代に宮中行事として取り入れられた事により「上巳の祓い」として「曲水の宴」を催したり、人形(ひとがた)で自分の体をなでて穢れを移し、川や海へ流すようになりました。玉貴で毎年行われている「流し雛」はこの名残です。

女の子の幸せを願う「ひな祭り」

また、人形作りの技術は長い時を経てより高級化してくるにつれ、人形は流すものから飾るものへと変化しました。それにより国内で内裏雛を雛壇に飾る「ひな人形」が流行し始めたことにより、私たち日本人の間で、女の子の幸せを願ってひな人形を飾る「ひな祭り」をお祝いする形となったのです。

時代雛特集|玉貴 時代雛特集|玉貴

お雛さまと婚期の関係

雛まつりの時に「早く片付けないとお嫁に行き遅れてしまうよ。」と聞いたことはありませんか?これには様々な説がありますが、有力な説としてひな人形はもともと古代中国の厄払い行事である上巳の節句の風習が日本の文化に浸透してきたこともあり、ひな人形に我が子の厄や災いを担ってもらうという風習の流れから、身の回りにいつまでも飾らずに早めに片付けて(婚期を遅くさせる)厄を遠ざけようと考えられておりました。また、飾る時に「早く飾ることで早く嫁に出す」や「早く片付ける(嫁に行ってもらう)」とささやかな母親の願いも含まれるようになり、自然とそんな想いがひな人形へと込められてきたのでしょうね。

平安時代の「ひな遊び」とは?

平安時代でされていたとされる「ひな遊び」は、現代の「おままごと」ととても似ています。小さな子供たちが公園でお人形を手に取り、自分のようにおままごとする姿は今も昔も変わらない遊びだったようです。

現在のひなまつり

これらが結びついて人の厄を担う男女の形がとられた一組の紙製の雛が生まれ、これが日本のひな人形の原型となりました。そして長い歴史の中で日本のひな人形作りの技術が向上していき、ひなを流す風習から飾るものへと 形を変えていきました。雛し雛はこの名残と言われております。

ひな人形について

玉貴では十人十色の表情をしたお雛様がたくさん連ねておりますが、それぞれのひな人形にはどんな歴史が込められているのでしょうか。江戸時代や明治時代のものから古くは平安時代のものまで。それぞれの文化を肌で感じながら一体ずつゆっくりと覗いてみましょう。

時代雛特集|玉貴

享保雛

江戸中期、享保年間ごろに流行したと言われる座り雛。江戸初期の寛永雛がさらに発展、高級化されたもので、比較的に大型の作品が多く高さ約45cmから、時には60cm以上のものもあります。寛永雛に似た面長の顔で装束は金襴や錦を用い、男雛は両袖を極端に張り、太刀を差し、笏を持った姿。女雛は、五衣、唐衣装で、袴には綿を入れて丸くふくらませ、檜扇を持っています。

有職雛(高倉雛) 時代雛特集|玉貴

有職雛(高倉雛)

公卿の装束を、有職故実に基づいて正しく雛に仕立てたもので、明治以降にこの名で呼ばれるようになりました。衣冠姿、或いは公卿の平常服の直衣姿のもの(直衣雛)が多く、着せ替えの装束も添えてあります。直衣雛は、男雛には別に束帯装束を女雛には十二単が用意してあって、直衣を脱がせて束帯に替えさせることもできます。顔の彫りも写実的に作られて古今雛の原型になりました。

紙雛(立雛) 時代雛特集|玉貴

紙雛(立雛)

「ひいなの遊び」として平安時代に作られたものに加え、形代(かたしろ)として使われたものそれぞれが結びついてできた雛人形です。その昔、体の部分は平面的な造りの為、ひとりで立つことは出来ず、雛壇や屏風に立てかけて飾っていました。 江戸時代になると天児(あまがつ)が男子、這子(ほうこ)が女子とされて、男女一対の立雛の原型となったと言われています。室町時代の風俗をかたどって男雛は小袖の袴姿で袖を両方に広げ、また女雛は小袖を前に重ねた細帯姿となっています。この紙雛の形が立ち姿であって雛壇に立てて飾ったことから、立雛ともいわれています。

時代雛特集|玉貴

次郎左衛門雛

京都の人形師菱屋次郎左衛門が創始した雛人形。上流階級を相手の雛人形でしたが、作者が日本橋室町に進出してきてからは一般にも普及し、従来の享保雛に代わって江戸の人気を独占しました。以降、明和、安永、天明、寛政期まで約30余年間に全く江戸化して上下階級に広く親しまれました。この種の雛は、面長だったそれまでの雛に比べて顔が丸く、引目鉤鼻の典雅な気品に満ちているのが特徴で、男雛は、黒袍に袴をはいた公卿の束帯姿。女雛は、五衣、唐衣に裳の姿で、大小さまざまな種類があります。

流し雛

流し雛とは、雛祭りのおおもとであり、源氏物語にある「須磨」にも記されているほどの歴史深い日本の伝統行事です。この行事が宮中のひいな遊びへと発展していき、雛祭りへと姿を変えていきます。

時代雛特集|玉貴 雛流し 時代雛特集|玉貴

災厄祓いを願い雛を流す

三月三日に行われていた上巳の節句の薬草摘みが雛祭りの古き姿でしたが、 時が経つにつれ人の形をした紙の人形(かたしろ)で体を撫でて、 それを川に流すことで穢れを祓い、災厄祓いを願う行事へと姿を変えていきました。 雛まつり・雛流しは共に日本人に愛され、今も尚全国的に見ても伝統行事として数々残されています。

願いを託す千代紙

願い事を書いた千代紙を、清流寒河江川に小船で流す神事、ひな流し。当店のお雛様を飾るお部屋の片隅に流し雛に願いを託す「形代」が用意されております。 様々な願い事をこの「形代」に書いて川に流す流し雛は健康としあわせを願うという神事です。 主に開催される4月4日は旧暦で3月3日(ひな祭りの日)。時代の変化に左右されず、古き良き歴史を長い年月と共に代々受け継いできております。

初節句・お食い初めについて

生後初めての節句のことを初節句といい、男の子は五月五日の端午の節句、女の子は三月三日に上巳の節句を迎えます。この日に厄除けの意も込め、我が子の健やかな成長をお祝いします。 ちょうどお食い初め(百日の祝い)の時期に近づいておりましたら、お子様にあわせたお料理もお作りいたしますのでぜひご相談ください。

Release : 2017.02.10 17:06:52
Updated : 2017.05.21 15:10:20